【礼拝のお知らせ】
感染予防をしつつ、
礼拝を行っています。
①毎週日曜日 10:40
②毎週日曜日 13:30
・不織布のマスクを着用ください
・換気のために窓を開けます
2022.12.30
霞ヶ関キリスト教会
マタイ5章33節〜37節
聖書 新改訳 ©1970,1978,2003 新日本聖書刊行会
5:33 さらにまた、昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』と言われていたのを、あなたがたは聞いています。
5:34 しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません。すなわち、天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。
5:35 地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。
5:36 あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、一本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです。
5:37 だから、あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上のことは悪いことです。
先週の宣教
ヘブル人への手紙13章7〜8節
「神のことばによって生きる」
(池田勇人牧師 記念礼拝 説教者:安藤能成師)
「神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい」とある(7)。「思い出し」という言葉から、みことばを話した指導者たちが天に召されていたと推測される。しかし指導者はいなくなっても、みことばは教会に残っている。
ここに、みことばを「話した」とある。これは、一方的にみことばを語ったということではなく、神のことばに生かされることの素晴らしさを分かち合ったということであろう。みことばは単なる知識ではなく、教会を豊かにし、宣教を前進させる。
だからこそ、その指導者たちを「思い出し」、彼らがどんなに力強い信仰生活を送ってきたか思い出すように命じられる。そして、「彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい」と命じられる。「生活の結末」という表現は、いろいろなことを想像させる。迫害の中、信仰を守り抜いて殉教した指導者のこと。召されるまで信仰に基づいた生活が首尾一貫していた指導者のこと。大切なことは、神のみことばによる信仰が生活の中で実証されていたという点である。どのような時代であっても、信仰とは神のみことばによって生活することである。
「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じ」と言われる(8)。主イエスが変わらないお方であることは、私たちの信仰においてとても重要である。もし、私たちが当てにしているものが変わってしまったら、どうなるだろう。主イエスは私たちの信仰の拠り所であって、「きのうもきょうも」すなわち、使徒たちがその目をもって主の十字架と復活を見届けた時から、今も変わることなく、私たちと共にいてくださる。
指導者たちは、いつかは居なくなってしまう。しかし、主イエスは今も生きておられる。神のみことばが、主イエスが共にいてくださることを証言している。キリスト者の信仰は、神の存在と神のみことばを信じることである。私たちは、救い主イエス・キリストに信頼し、聖書として記され・語られている神のみことばによって生きることにより、信仰の歩みをすることができる。 (まとめの文責:佐野泰道師)
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