第2列王記17章1〜18節

「北イスラエル王国の滅亡」

 

 BC722年、北イスラエル王国はアッシリヤ帝国に滅ぼされた。聖書はこの出来事を「ホセアの第九年に、アッシリヤの王はサマリヤを取り、イスラエル人をアッシリヤに捕らえ移し」と語るだけである(6)。代わりに、723節を王国が滅んだ理由に当てる。その理由は内乱や外国の侵略ではなく、神への不信仰・不服従とされる。神のさばきを受けて、王国が滅んだのである。

 

 列王記を最初に手にしたのは、祖国イスラエルから外国の見知らぬ町に連れて来られ、将来を奪われた人々であった。絶望の中で神に祈り、救いを求めていた。その人々にとって、この箇所は神の救いを示すものであった。

 

 まず、自分たちがどんな過ちを犯したかを検証することができた。北イスラエルでは創設期から、主なる神を金の子牛の像に置き換えて礼拝してきた。その他にも、カナンの地で昔から信仰されてきた神々を拝んでいた。これらは「ほかの神々があってはならない」「偶像を造ってはならない」という主の教えに背く罪でありながら、「風習」としてこれらを受け入れたのである(8)

 

 日本にも様々な風習があり、一切関わることなしに生活することはできない。どこからが偶像礼拝・異なる神への礼拝にあたるのかを正しく知ることが必要である。正しく知ることで、何ができるのか、何を断らなければならないかが明確になる。

 

 異なる神々を「風習」として受け入れることにより、人々は主をさげすんだ(15)。それでは、主をさげすまないとは、どうすることなのか。それは「心を尽くす」ということではないか。

 

 心を尽くすことは、「風習」に適当な折り合いを付けることではない。「風習」に囲まれながら、そこで主に従い・主を求めて生きることである。心を尽くそうとすると、自分が何を第一にしているかを問われる。

 

 主を第一に従うべきお方としているか。主の「おきて」「契約」「警告」に対して心を尽くしているか。怠ける心を反省しつつ、悔い改めつつ、主を愛する歩みをする。心を尽くして主を愛し・主に従うことを、主は喜ばれる。