エズラ記10章1〜14節

「ただ主を求めて」

 

 エズラはイスラエルの指導者でありペルシヤ帝国の役人、また律法の教師であった。BC458年、エズラは視察と律法を教えるためにエルサレムを訪れた。そこでエズラは意外な現実に直面する。

 

 イスラエルの指導者やその子孫たちは、婚姻関係を通して偶像礼拝を受け入れていた。エルサレム帰還から80年。バビロン捕囚からの解放の喜びは、すでに風化していた。神を見つめる眼差しは濁り、みことばを聴く耳は鈍った。その分、人々は神ならぬものを求め、世の民と接近した。…エズラは、この報告を聞いた時、絶句して座り込んでしまった。

 

 偶像礼拝の罪は、ソロモン王から歴代の王に繰り返された悪癖である。この罪によって、バビロン捕囚という辛酸を嘗める経験をした。しかし、あわれみ深い神は、奇跡的にイスラエルの民がエルサレムに帰る道を開いてくださった。神殿が建てられ、再び神を礼拝することができるようになった。神から豊かなあわれみと恵みをいただいて、ようやくここまで回復できたというのに、イスラエルの民は再び、罪の歴史の1ページ目に逆戻りしている。豊かに赦されているにもかかわらず、あまりにもお粗末な事態を見せつけられ、エズラは失意のうちに悔い改めを祈った。

 

 私たちは現代に生きる神の民である。私たちは神を神として信じているだろうか。この世のものを求め、この世を神としていないだろうか。神を信じ、神を求めているだろうか。

 

 神を求めるということを、改めて考えさせられる。アッシジのフランチェスコは、「わが神よ、わが神よ」と祈ったことで知られる。神を求めることは、長々と立派な祈りをすることではない。厳しい戒律を自分に課すことでもない。迷いながら、悩みながら、神を求める。苦しみの中、罪に悩みながら、神を求めるのである。

 

 9,10章で、エズラは一言も何かを願っていない。エズラもまた、恐れと迷いの中にいたのである。しかし神を求めてひたすらに祈った結果、大勢の人々に罪の自覚が与えられ、解決策が示され、人々が神へと悔い改めていった。神を求めることで、なすべきことが示され、神に導かれて進むことができたのである。