エペソ2章1〜10節
「驚くべき恵み」
李相勲師(高麗聖書教会牧師)
人は「自分の罪過と罪との中に死んでいた者」であると言われる(1)。聖書は私たちに本来の姿を確認させる。「罪過」とは神様から離れているという状態である。ぶどうの木から切り離された枝が生きられないように、神様から離れた状態にある人間は、本来の意味で生きることができなくなっている。また「罪」とは的外れということであって、自分の意志によって的外れな行いをしてしまうことである。このような「罪過」と「罪」において私たちは死んだ状態にあると、聖書は教えている。
しかし神様は、そんな私たちに驚くべき恵みを与えておられる。「あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、ーあなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのですーキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。」(4〜6)神に愛される資格のない私たちが「恵みのゆえに」救われている。驚くべき恵みである。
恵みを受けるために、条件はない。ただ、父なる神様のところに戻ること。どんな形でも良いから、神様のところに帰ること。その時、私たちは恵みを受ける。恵みは神様のプレゼントである。
なぜ神様は、このような驚くべき恵みをくださるのだろうか。10節には「私たちは神の作品であって、良い行いをするためにキリスト・イエスにあって造られた」とある。神様は私たちに恵みを与えて、「神の作品」として「良い行いをするために」生かしてくださった。この御心に応えて、私たちも「罪過」と「罪」を離れ、「良い行い」をする「神の作品」として生きていこう。神様は、そのために驚くべき恵みを与えてくださったのだから。
現代において、教会の敷居が高くなり、神様の恵みを喜んで受け入れる人々が、教会の中では居場所を見つけられないという状況があるのではないか。この現実を受け止め、“福音を必要とする人々ならばどんな人でも受け入れる”という、神様の恵みを体現する教会になれるように願っていきたい。 (まとめ:佐野泰道)