エレミヤ書8章4〜12節
「主はシオンにおられないのか」
「主はシオンにおられないのか。」(19) シオンとはエルサレムの別名だが、神様の臨在の象徴である。神様に助けてもらいたいのに、神様が沈黙してしまう。エレミヤは、そのよう失望の時が訪れることを預言している。
当時、偽預言者たちは「平安がないのに、『平安だ、平安だ』と言って」と語っていた (11)。それは“エルサレムは神の住まいであるから、我々は滅びるはずがない”という意味である。民衆は、聞こえの良いメッセージに酔心していた。
それに対して神様は、災いの予告と共に悔い改めを語っておられた。コウノトリも山鳩もツバメといった渡り鳥も「自分の帰る時を守るのに、わたしの民は主の定めを知らない」と、神様は嘆く(7)。それは、悔い改めようとしない民に対して、“帰ってきなさい”と招く声であった。しかしどんなにエレミヤが語っても、民衆は耳を傾けない。
エレミヤのメッセージと偽預言者のメッセージには、明らかな違いがある。それは悔い改めを語っているかどうか、という点である。偽預言者たちは「これは主の宮、主の宮、主の宮だ」(7:4)と、神殿を理由に平安を語った。しかし神様の平安は、神様との生きた関係が根拠になるべきである。「神へのいけにえは、砕かれた霊。砕かれた、悔いた心」(詩51:17)とあるように、悔い改めこそ私たちが聴くべきメッセージであり、神様が求めておられるささげものである。
「悔い改め」は「反省」や「改善」とは異質のものである。「反省」や「改善」は自分に対して行うものであり、神様に向かわなくても可能である。しかし「悔い改め」は、向きを変えて・神様に向かうことである。神様に向くと、祈りが生まれる。祈りのない悔い改めはあり得ない。悔い改める者は、祈りつつ反省し、祈りつつ改善する。神様の愛をたくさんいただきながら、悔い改めの実を結ぶ者となろう。
「彼らは欺きにすがりつき、帰って来ようとしない。」(5)