エレミヤ書25章1〜14節
「聞くことから始まる祝福」
エホヤキム王の第4年、神は預言者エレミヤに“これまで語った言葉を巻物に書き記せ”と命じた。エレミヤは20歳前後から23年間、神の言葉を「絶えず、しきりに」語り続けてきた(3)。ところが、イスラエルの民はエレミヤの言葉に耳を貸そうとせず、神の言葉を聞かなかったのである。
聖書は、神の言葉を“聞く”ように何度も繰り返して命じている。「聞きなさい、イスラエル」(申命記6:4)、「聞く耳のある者は聞きなさい」(ルカ8:8)、「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」(黙示録2:7)など、枚挙にいとまがない。
“聞く”ことの反対を意味する言葉は何か。“聞かない”というのも間違いではないが、「自分の悟りに頼る」ことではないか(箴言3:5)。自分の耳に蓋をして聞くことをやめてしまい、自分の考えだけで事を進めてしまう。そうやって自分の悟りに頼り“聞く”ことをしないで進んでしまうと、どうなるか。人は次第に自分を絶対化するようになり、“自分こそ正しい”と思い込み、ますます他者の言葉を“聞く”ことができなくなる。人にとって“聞く”ということ、とりわけ“神の言葉を聞く”ことは大切である。
イスラエルの民は、“聞く”ことをしなかったために、自分の身にわざわいを招いた。約20年に渡ってバビロン軍から攻撃された末、神の都エルサレムは滅ぼされ、イスラエルの民はバビロンに捕囚として連れ去られた。「バビロン捕囚」である(BC586)。
しかし神は、慰めを備えておられた。“イスラエルの民がバビロンに仕えるのは70年である”と、神はエレミヤに語られた(11)。バビロン捕囚という出口のないトンネルのような苦しみに対し、神はその苦しみが終わる時を定めておられた。真っ暗な闇の先に、神は光を備えておられたのである。
神が備えてくださった“トンネルの出口”、“闇の先の光”を信じるために、私たちは神の言葉を聞かなければならない。耳で聞き、読んで聞き、心で聞く。理解できなくても聞く。従えなくても聞く。礼拝を通して聞き、聖書を読んで聞く。自分の悟りに頼らず聞く。神の言葉を聞くことこそ、光への道である。