ガラテヤ5章13〜26節
「キリストの自由を生きる」
ガラテヤの教会は、救いのことで混乱していた。ある人々が入り込み、“主イエスを信じるだけでなく、割礼を受けなければ救われない”と主張したのである。“主イエス+α”の教えである。
宗教改革を行ったマルティン・ルターは、修道士だった頃、自分が救われないと思い悩んでいた。様々な欲や怒りなど、肉の欲を振り払おうとして何度もざんげしたが、克服できなかった。ルターは“肉の欲を克服すること”を+αとして自分に課したために、救いを確信することができなかった。しかし私たちを救うのは、主イエスである。主イエスを信じることで、人は救われる。そこに+αが入り込む余地はない。私たちは主イエスによって、罪の裁きからの自由・キリストの自由を与えられている。
「兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。」(13) パウロは、キリストの自由を「肉の働く機会としない」ように警告する。人は折角いただいたキリストの自由を自分勝手に解釈して、“どうせ赦されるのだから、これくらいは構わない”と悪用してしまう。ここに私たちの課題がある。キリストの自由を正しく使うことができないのである。
パウロは「御霊によって歩みなさい」(16)と語る。「御霊によって歩む」とは、日々悔い改めながら生きることである。悔い改めは、聖霊の導きの中で与えられる。私たちは何度も・何度でも、福音を信じて・救われていることを感謝する。罪は克服するものではなく、悔い改めるものである。キリスト者は、生涯、悔い改めつつ、赦された者として喜んで生きる。
また「御霊によって歩む」とは、神が望むことを自分も願うように造り変えられることである。聖霊は「御霊の実」を結ばせる(22,23)。神の愛に生きてみたい、神の愛で人と接したいという願いは、愛という御霊の実である。神を喜び、みことばを喜んでいきたいと願うことは、喜びという御霊の実である。「キリストが私のうちに生きておられる」ことを信じて(2:20)、キリストの自由を活用して生きてゆこう。