ヘブル4章14〜16節
「私たちの大祭司」
小見靖彦師
(いのちの樹教会 牧師)
私たちは、この世界をくれてやるとか、明日から億万長者にしてあげようとか、あまりにも大きな誘いには惹かれることはありません。しかし日々の生活の中、ちょっとした誘惑には、簡単に心がなびいてしまう者ではないでしょうか。
ちょっとした誘惑。ちょっとした過ち。それらは目くじらを立てるほどのことではないかもしれません。罪だと言われると、それは言い過ぎでは、と思ってしまうかもしれません。けれどどうでしょう。聖書には「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(ヤコブ1:15)」とあります。小さな誘惑に慣れてしまうと、より大きな罪を招くというのです。
例えばです。私は子供の頃、家庭学習の教材を親から与えられました。けれど、コツコツ勉強することの嫌いな私は、よく親の目に隠れて、巻末にある答えを丸写しして終わらせていました。
学習帳の回答を丸写しすることは、誰に迷惑がかかるわけでもありません。それが罪かと問われれば、そこまで大げさにする必要はないように思います。しかしそれに慣れていきますと、何事においても楽して事を済まそうとばかり思うようになるかもしれません。それは如いては、自分に得にならないことは何一つやらないとか、他人のために時間を費やすことなどばからしいとか、そういう感覚に発展していくかもしれません。
これくらい大丈夫。そう言い聞かせることの積み重ねが、実は私たちの罪意識を曖昧にし、より大きな罪を招くことに繋がるのではないでしょうか。「欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます(ヤコブ1:15)」そしてそういう小さな誘惑に対する敗北感を日々感じては落ち込む私たちではないでしょうか。
さて、そういう私たちの現実に対して、御言葉は「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。」と言ってくださるのです。何と慰めに満ちた言葉でしょう。しかし、これは私たちの弱さを気にしなくていいよと言っているわけではありません。誘惑に対して、開き直るのではありません。どうせ勝てないのだから、それでもイエス様は赦してくれるんだから、と初めから勝負を放り投げることは、聖書の語るところではありません。ヘブル12:4には「あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。」と言っています。
ですから誘惑には抵抗しなければなりません。罪とは戦わなければなりません。しかし、それでも尚、抵抗しきれない時がある。心折れて打ちひしがれる時がある。けれど、それはイエス様の知る所だと言うのです。ですからそれは終わりではなくて、再び立ち上がるためのきっかけにするべきです。大事なのは、この再び立ち上がるということです。失敗するな。間違いを犯すな。ではなくて、くじけるなです。引きずるなです。
なぜなら、主イエスがわたしたちの大祭司であるからだと御言葉は語るのです。主イエスが大祭司である。それはつまりイエス様が私たちをとりなしておられるということです。自分自身を見れば神様に叱られて当然。罰せられて当然。それは私たちの紛れも無い現実です。私たちには弁解の余地はありません。もうダメだ。私なんていない方がマシだ。とそんな風に思う毎日です。けれど、そんな私たちのために、イエス様は今日もとりなしてくださっています。そして、このお方は、私たちの弱さを承知してくださるのです。つまり、この御方はどこまでも私たちの味方をして下さるのです。私たちは欠けだらけです。至らないところばかりです。しかし、イエス様はそれが悪いとは言いません。そういう欠けを持つ身である不自由さを神様に取り次いで下さいます。私たちが神ならぬ者であることを取り次いで下さっているのです。 (要約:小見師)
「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(15,16節)