マタイの福音書11章1〜19節
「みことばの実現を信じる人」
バプテスマのヨハネは、主イエスに先んじて救い主が来ることを世に知らせた人物であった。人々はイスラエル中からヨハネのもとに押し寄せ、ヨハネの説教を聞いて悔い改めて洗礼を受けた。しかし、かつてヨハネを求めた人々は、いつの間にか神に心を閉ざしていた。ヨハネのことを悪霊付きと批判し、主イエスのことも大酒飲みと侮辱した。
そのような人々のことを、主イエスは「市場にすわっている子どもたち」にたとえている。子ども同士で、“結婚式ごっこをしよう”と誘っても“それは嫌だ”と批判し、“お葬式ごっこならどう?”と言われても“それはつまらない”と言って拒む。それなのに、自分からは何も動こうとしない。
主イエスは、そのように文句ばかりで自分からは動こうとしない人を、恵みの再発見へと招く。彼らはヨハネを預言者だと思ったが、ヨハネはそれ以上の人物であった。実にヨハネが来たことによって神の歴史は大転換し、それまでの預言が成就して神の救いがすべての人に与えられるようになったのである。それ故、主イエスは「耳のある者は聞きなさい」と言って、すべての人に救いを受け取って欲しいと願っておられる。
また、ヨハネの弟子たちが主イエスのもとに来て言った。「おいでになるはずの方は、あなたでしょうか。」ヨハネは主イエスに洗礼を授けた人物であって、主イエスのことはわかっているはずである。しかしヨハネは、主イエスが救い主の働きをしているところを見ていなかった。ヨハネは自分の時間が長くないことを知り、自分が一生をささげた救い主のことを確かめたいと思ったのである。主イエスはイザヤ35:5を引用して「このみことばの通りになっている」と答えた。ヨハネには十分な答えであった。
神の救いは私たちにも与えられている。私たちは「市場にすわっている子どもたち」のような、批判的ばかりで自分からは何もしない一面を持っている。そういう私たちであっても、主イエスを求めるならば何かが変えられて神の救いを受け取る。心を尽くして、みことばが実現することを求め続けたい。