マタイの福音書15章1〜20節

「弟子を訓練される主」

 

 ガリラヤにいる主イエスのもとに、エルサレムからパリサイ人と律法学者がやってきた。主イエスを糾弾するためである。「なぜ、あなたの弟子たちは、食事の前に手を洗わないのか。」衛生上の問題ではない。ユダヤ人は、宗教的な汚れをきよめるために、食事の前に手を洗った。そういう儀式が神を敬い・神に喜ばれることだと理解されていた。

 しかし主イエスは、「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている」と言われた(8)。儀式が形だけになっており、神を敬う心が失われているという問いかけである。主イエスは私たちにも問いかけておられる。“あなたには神を敬う心があるか”。“どうやって神を敬う心を養うのか”。2つの答えが示されている。

 1つは、パリサイ人の言葉を放っておくということである(14)。私たちの周りには、合わせておいた方が楽な考え方や価値観がある。しかし神を敬う心を養うためには、その考え方や価値観に反してでも神に従うという姿勢が求められる。それを批判したり・議論したりせず放っておく。自分はみことばに聴き、神を敬う道を選ぶのである。

 もう1つは、自分の心を見直し・心の汚れに気づくことである(11)。「悪い考え、殺人、姦淫、不品行…」これらは汚れた心から出てくるものであり、人に対する罪だけでなく、神に対する反抗である。これを罪と言う。主イエスは、私たちの罪のために十字架で死なれた。自分の罪を悔い改めつつ十字架の赦しを仰ぎ見ることで、神を敬う心は養われる。

 

「こうして、あなたがたは、自分たちの言い伝えのために、神のことばを無にしてしまいました。」(6