マタイの福音書19章13〜22節

「神の祝福に至る道」

 

 

 子どもたちが主イエスに祝福を求めた時、主イエスは「天の御国はこのような者たちの国なのです」と言われた。そして子どものようになることが、神の祝福に至る道であることを示された。

 

 子どものようになるとは、すでにマタイ18章において「自分を低くする」という意味であると言われていた。「自分を低くする」とは謙虚さや三歩下がることではなく、主イエスを求めることである。主イエスの祝福を求めて主イエスをさらに知ろうとすることが、「自分を低くする」ことであり、神の祝福に至る道である。

 

 神の祝福は賜物であって報酬や功績ではない。人間世界の祝福は、たとえば働きに対して“よくやってくれた、ありがとう”とか、良い成績に対して“おめでとう”ということで祝福される。しかし神の祝福は、“ありがとう”も“おめでとう”もない時に、神からの賜物(贈り物)としてただ祝福される。

 

 大人は、ただで与えられるということに納得できない。何か裏があるのではないかと勘ぐったり、自尊心が邪魔をして受け取れなくなる。そのため、神が賜物として祝福を与えることに抵抗を感じるのである。むしろ、大人は金持ちの青年なら納得できる。彼は子どもの頃から十戒を守り、その上、自分に不足があると思って永遠のいのちを求める、誠実で謙遜な人物である。私たちには、彼のような人こそ神の祝福にふさわしく見えるのではないか。

 

 主イエスは、この青年を永遠のいのちに導こうとされた。どんなに十戒を守ったつもりでも、その功績で永遠のいのちを得ることはできない。永遠のいのちは神からの賜物であって、神に頼り・神を知ることを通して与えられる。主イエスは「良い方はひとりだけ」と言って、神に頼りながら十戒を行うことへと導いた。

 

 たとえば「殺してはならない」という戒めを前にすると、自分の心にある憎しみや恨みが示される。同時に神のみことばに促されて、寛容な心を求めたり、赦しのために祈るようになる。そうやって神に頼りながら十戒を行うと、その過程で神の祝福が自分の人生に組み込まれることを知る。神の祝福を求めて、神と共に神のみことばを行うことが、神の祝福に至る道である。