マタイの福音書 23章13〜24節
「あなたのために嘆くイエス」
「わざわいだ」と、主イエスが嘆いておられる。パリサイ人・律法学者たちが、神を教える立場にありながら神を知らず、神の御心を損なうようなことをしているからである。主イエスは、ただ怒り・批判し・裁いているのではない。この嘆きには、悲しみが込められている。主イエスは、嘆きながら悲しんでおられる。
まず、パリサイ人たちは天の御国をさえぎっていると言われる(14)。彼らのせいで、ある人たちは神を知ることができなくなっている、と。これが自分に向けられた言葉と読むならば、私たちは何も言えなくなるだろう。自分の信仰姿勢のせいで、誰かが神を知ることを妨げている。見方を変えれば、神は私たちを通して、神を信じる人を起こそうとしているということである。私たちはこの厳粛な事実を受け止め、“このような私で申し訳ありませんが、あなたのために用いてください”と祈る者でありたい。
またパリサイ人たちは、手に入れたすべての10分の1を神にささげた。はっか・いのんど・クミンという香辛料まで、10分の1を取り分けた。主イエスはその行為自体は認めつつ、彼らが自己満足でささげていることを批判された(23)。パリサイ人たちは、10分の1のささげものの本質である「正義とあわれみと誠実」を忘れていた。本来ささげものは、神への感謝として・また困っている人を支えるためにささげるものである。しかし彼らは規則を細かく遵守することに躍起になって、本質を見失っていた。
パリサイ人たちのこのような姿は、私たちにも通じるところがある。とするならば、主イエスは私たちの罪のためにも嘆き悲しまれたのである。私たちはどれだけ、主イエスを嘆き悲しませて来ただろうか。罪を悟ることなく、過ちを繰り返し、愚かさを上塗りしてきたことか。しかし主イエスは、その嘆きを罰として私たちに向けなかった。それどころか、主イエスはすべての嘆きをご自分で飲み干された。それがあの十字架であった。主イエスはあの十字架において、すべての罪を背負い、すべての嘆きを処理されたのである。私たちはこの愛を受け取ることで、「正義とあわれみと誠実」をもって神に感謝をささげる者でありたい。