マタイの福音書 26章1〜13節

「埋葬の備え、福音の兆し」

  

  過越の祭りが2日後に迫った時、主イエスは「人の子は十字架につけられるために引き渡されます」と十字架を予告された(2)。十字架は神の計画によるものである。だからこそ、十字架は主イエスによって繰り返し予告され、旧約時代から預言されて来た。

 

 十字架は、過越の祭りと深い関わりがある。過越では羊が人の身代わりとして犠牲になったが、その羊は主イエスご自身を指し示すものであった。神は、主イエスの十字架を通してすべての人を救うというご計画を立てておられた。

 

 主イエスの十字架に先立って、埋葬の備えを語る話がある。主イエスの一行がベタニヤ村で食事をしておられる時のこと。ある女の人が主イエスに近づき、非常に高価な香油を注いだ。香油は主イエスの頭から身体と足に流れたようである。弟子たちは憤慨して「何のために、こんな無駄なことをするのか」と言った。確かに、もてなしの心を表す香油としては使い過ぎであった。

 

 しかし、主イエスはこの女の人を擁護した。彼女のしたことは良いことであり、彼女は「わたしを埋葬する備えをしてくれた」のだと主イエスは言われた。この女の人は、主イエスの十字架を悟っていたのか、わからない。しかし、香油注ぎの行為は主イエスご自身によって“主イエスの埋葬の備え”と位置づけられた。

 

 この香油の出来事は、神の御子の死を表している。神の御子である主イエスが十字架で死んで埋葬されること、これが福音となる。主イエスが私たちの代わりに死に渡されることによって、私たちは死の運命から解放され、神のいのちに与る者とされる。

 

 そして主イエスの死によって、私たちは神の愛を知る。主イエスは、神に背く私たちのために、ご自分から進んでいのちを捨ててくださった。自分から神に“救ってください”と願うことさえできない私たちのために、主イエスはご自分から、いのちを捨てるという犠牲を払ってくださった。ここに神の愛が示されている。

 

 主イエスの死は、私たちのための死であり、私のため・あなたのための死である。この主イエスの死をしっかりと受け止めよう。主イエスの愛と十字架の死を覚えながら、明日へと進んでいこう。