マタイの福音書 26章26〜35節

「いのちの望み」

  

 主イエスと弟子たちが過越の食事をしていた時、ご自分の死を強く意識しておられた主イエスは、パンを「わたしのからだ」、杯を「わたしの契約の血」とお定めになった。これは聖餐式の原型である。主イエスのからだと血は2つで主イエスご自身を意味しており、からだと血が分かれているのは主イエスが死なれたことを表している。私たちは聖餐式でパンと杯をいただくことにより、私たちのために死なれた主イエスご自身を受け取っている。

 

 主イエスは「今から後、わたしの父の御国であなたがたと新しく飲むその日まで」杯を飲むことはないと言われた。「その日」とは、主イエスの再臨の時を指す。天と地が新しくされ、父なる神さまの御国が完成する。主イエスはその日、主を信じるすべての人々と再会し、喜びの杯で祝うと言われた。

 

 ここで主イエスは、十字架の死という厳しい現実を見据えながら、その死を超えた先において再び会うことを確信しておられた。主イエスの死と復活により、死で終わらないいのち・困難や挫折から立ち上がらせるいのちが与えられる。主イエスはこのいのちを、主イエスを信じる者に与えてくださる。

 

 過越の食事が終わり、オリーブ山に移動した時、主イエスは弟子たちが離散することを告げる。ペテロは主イエスの言葉を否定して、“他の弟子たちはつまずいても私だけは決してつまずかない”と宣言する。ペテロは本気で、主イエスに付き従うことを決意していた。勇敢だったが、そこには人間の限界があった。

 

 主イエスは、ペテロがご自分を見捨てると予告した。その予告の通り、鶏が3度泣く前に、ペテロは主イエスとの関係を否定してしまう。これは自分でも予想していない行動であった。ペテロは自分の限界を思い知らされ、失意のうちに自分の弱さに打ち倒される。しかしペテロはその挫折と失望の中で、再び主イエスを信じる信仰によって立ち上がるように導かれる。ペテロの内において、主イエスのいのちが力を発揮したのである。このいのちは、失敗から立ち上がらせ・死を超えさせる力を持っている。主イエスを信じることで、私たちにもいのちの望みが与えられている。