マタイ5章10〜12節
「義のために迫害される者」
「義のために迫害される」とは、主イエスを信じる故に迫害されることである。悪口、いじめ、暴力行為なども迫害の一部とされる。世界福音同盟が2022年に調査したところ、世界のキリスト者のうち7人に1人が迫害下にあると言われる。2021年には、世界で5千人以上のキリスト者が迫害のために命を落としたという記録もある。日本でも隠れたところで迫害が続いている。
誰にとっても、迫害は受け入れがたいものである。私たちは迫害において“からっぽな自分”を思い知らされる。迫害に耐えるだけの力がないこと、迫害を受け止める信仰の乏しさに直面する。しかし、そんな私たちに主イエスは豊かに関わってくださり、みことばをくださる。それ故、迫害も「幸い」と言われる。
迫害に直面した時、私たちが最も鋭く問われることは、“どのようにみことばを聞くか”ということである。私たちはみことばなしでは迫害に耐えることはできないが、みことばの約束に支えられることで迫害に耐える力が与えられる。
私たちがなすべきことは、主イエスを仰ぎ見て、主イエスを求めることである。主イエスを求めると、主イエスが山上の説教で約束された「幸い」を知ることができる。心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者など、これらのみことばは迫害の中でこそ、いよいよ切実に問われることになる。しかし同時に、迫害においてこそ、みことばの力強さをリアルに知ることになる。
主イエスは「喜びなさい。喜びおどりなさい」と命じられた。天において、「あなたがたの報いは大きい」と約束されているからである。ただし、聖書はこの「報い」について詳しく語らない。私たちが、自分の小さな損得勘定で天の報いを計算しようとするからであろう。むしろ私たちは、この「報い」という言葉に神さまのエールを読み取りたい。迫害に直面すれば、誰でも信仰が揺さぶられる。穴の空いたバケツのように、虚しさを感じる。しかし主イエスは、そんな私たちを「あなたがたの報いは大きい!」と励ましてくださり、主イエスの方に引き上げてくださる。すべての勝利は主にあると信じ、主イエスを求めていきたい。