マタイの福音書5章17〜20節

「みことばを成就するために」

 

 主イエスは、安息日に病人を癒し、悪霊に苦しむ人をお助けになった。多くの人々は主イエスの奇跡に熱狂したが、パリサイ人・律法学者は主イエスが安息日の規則を破ったことで主イエスを疑い、主イエスを「律法や預言者を廃棄する」者と見なした(17)

 

 このような人々の声に対して、主イエスは“わたしは聖書を「廃棄するためにではなく、成就するために来た」と言われた(17)。聖書のことばを廃棄していたのは、パリサイ人・律法学者であった。彼らは「殺してはならない」を、“殺すことはいけないが、殺さなければよい”と教え、みことば本来の意味を失わせてしまった。これが、みことばを「廃棄」することである。

 

 私たちはどうか。みことばを読むことを怠け、意味の受け取り方が浅く、みことばの力を汲み取れない。みことばの好き嫌いがあり、みことばの生ゴミをたくさん出して「廃棄」してしまう。

 

 しかし、主イエスはみことばを「成就」される。主イエスは、「殺してはならない」の本当の意味を解き明かされた。腹を立てたり、言葉で傷つけることも、殺人と同じであること。自分から進んで仲直りをすること。「殺してはならない」というみことばは、そこまですることを求めているのである。

 

 みことばを成就する者は、神に「義」と認められる。主イエスは、みことばにおいて神が要求しておられることを実行された。また主イエスは、みことばで定められている違反者への罰をご自分で背負われ、十字架で死なれた。こうして主イエスは、すべてのみことばを成就し、神に「義」と認められた。

 

 主イエスの「義」は、コートのように私たちをすっぽりと覆う。私たちは主イエスの「義」をいただいて、神さまに「義」とされ、天の御国に入れていただくことができる(20)

 

 もし、主イエスの「義」をいただきながら、みことばに従うことを怠け、みことばに従わないように教える者は、天の御国で「最も小さい者」と呼ばれる(19)。主イエスは、私たちがみことばに従い、みことばを行って生きることを望んでおられる。みことばを行うことで、みことばが自分の人生に成就するのである。