マタイの福音書 8章1〜4節
「わたしの心だ。きよくなれ」
主イエスのみもとに「ツァラアトに冒された人」が近づいた。ツァラアトは重い皮膚病とされ、感染のために隔離される病であった。主イエスのまわりにいた群衆は、思わず後ずさりした。
ツァラアトの人は「主よ、お心一つで、私をきよくしていただけます」と言って(2)、病の癒しを願った。彼は、主イエスがツァラアトを癒すことができると信じていた。それでも「お心一つで」と言ったのは、ツァラアトが“汚れ”とみなされ、“神から遠ざけられている”と考えられたからであった。彼はそんな自分を主イエスが受け入れてくださるかどうか、迷いがあったのである。
主イエスは手を伸ばし、彼にさわられた。“さわる”という行為に、群衆は驚嘆した。主イエスは「わたしの心だ。きよくなれ」と言って彼を癒された(3)。主イエスがわざわざ「わたしの心」と言ったのは、“わたしはあなたを受け入れ、あなたが回復することを願っている”という主イエスの意思を伝えるためである。
17節に明らかにされていることだが、主イエスはツァラアトを引き取られた。これは主イエスがツァラアトに感染したという意味ではないが、主イエスが彼に代わってツァラアトを引き受け、彼の代わりに“神から遠ざけられる”運命を背負ったのである。それはやがてあの十字架となり、神から捨てられることにつながる。
主イエスは私たちにも「わたしの心だ。きよくなれ」と語ってくださり、私たちのツァラアトを引き取ってくださる。ツァラアトとは私たちがどうしても克服できないことであり、呪いのようなマイナスの塊である。主イエスは私たちが良くなることを願ってくださり、私たちのツァラアトを引き取ってくださる。
私たちは主イエスに祈っても、“すぐに”結果が得られないことがある。もし、“すぐに”祈りの結果が得られたら、私たちは主イエスを召使いのように見てしまい、“主イエスというお方を深く知ること”を求めなくなるのではないか。主イエスは、私たちが主イエスの心を知り、まるで友情が深まるように、主イエスというお方を深く知って欲しいと願っておられる。私たちは様々な重荷を主イエスに祈ることを通して、主イエスの心を知っていきたい。