ヨハネ11章1〜16節
「主の愛が満を持して」
小林和夫師
愛する兄弟ラザロが床に臥せった時、マルタとマリヤは主イエスに使いを送って言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」(3) 彼女たちは、“主よ。あなたが愛する彼が病気なのです”と、主の愛に軸足をおいて助けを求めた。主は愛する者に最善をなされる。そこに立つ時に、平安がある。
ここで心に留めておきたいことがある。彼女たちが主イエスを愛する愛には「フィレオー」というギリシア語が使われていたのに対し、主イエスが愛する愛には「アガペー」が使われた。彼女たちは心を注いで主イエスを愛した。しかし、主イエスの「アガペー」の愛は無比の愛であり、不変の愛であった。主イエスは、マルタとまりやが絶望して愛を感じられなくなっている時にも、彼女たちのことを愛し続けていてくださったことがわかる。
不思議なことに、主イエスは危急の知らせを聞いてもすぐには動かなかった。6節には「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた」とある。愛する者が危機に面しているなら、最優先で向かうべきだと私たちは考える。しかし主イエスは、「アガペー」の愛で愛すると言いながら、2日も先延ばしにされた。私たち人間には理解しがたい行動である。
ここには、主権者であられる主イエスの「時」が明らかにされている。2日の遅延は、主イエスにとっては満を持してのベストなタイミングであった。神の時は美しいのである。
私たちの目には、神様の助けが手遅れのように見えることがある。しかし、主の御手に遅すぎることはない。私たちは神の時が満ちるのを待っているだろうか。神はラザロと同様、私たちをも愛しておられる。どんなに遅すぎるように見えても、主イエスに対する信頼を失わないでほしい。満を持してなされる神の御業は、時にかなって美しいのだから。
「そのようなわけで、イエスは、ラザロが病んでいることを聞かれたときも、そのおられた所になお二日とどまられた。」(6)
(まとめ:佐野泰道)