ヨハネ16章1〜11節
「しかし勇敢でありなさい」
過越の祭りの食事の最中のことだった。主イエスは、弟子の裏切りを予告し、自身の死を語った。弟子たちは激しく動揺し、深い悲しみに覆われた(6)。主イエスはそれでも、「あなたがたがつまずくことのないため」(1)にと、これからのことを語られた。
「人々はあなたがたを会堂から追放する」(2)と、迫害が予告される。迫害は「世の中」vs「教会」という図式でも起こるが(15:18)、「迫害する教会」vs「迫害される教会」という図式でも起こることを覚えたい。誰もが迫害に対して不安を抱く。“自分は絶対に大丈夫”と言い切れる人はいない。主イエスは、迫害に耐えて主イエスから離れないように、「助け主」である聖霊を約束された(7)。
聖霊は、私たちが主イエスを信じ続けるのを助けてくださる故に「助け主」と呼ばれる。ただし聖霊は、“私が怠けて居眠りしていても迫害を乗り越えられるように”、私に代わってすべてを行うように助けるお方ではない。私が主に従う決断ができるように、背後で助けてくださる。
聖霊はこの世に対して、最後の審判を下すのは誰なのかを示す(8)。まことの審判者であり救い主である主イエスを信じないことは罪とされる(9)。キリスト者は迫害において世から“犯罪者”とされ、罪に定められるかもしれない。しかし主イエスを信じるならば、神の法廷において義(正しい者)とされる。主イエスは十字架で私たちの代わりに罰を受け、私たちの罪を償ってくださった。
主イエスは約束された。「しばらく」の嘆きと悲しみの時があるが、それは喜びに変わると(20)。迫害の苦しみは、主イエスにあって「しばらく」である。その苦しみには終りがあり、主イエスによって耐えることができ、ついに喜びへと昇華される。人生の様々な悲しみも、主イエスにあって「しばらく」であると信じよう。主はすでに勝利を用意しておられる。その時を信じて祈ろう。
「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです。あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(33)