ヨハネ19116「まことの王は誰か」

 

 5節「それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに『さあ、この人です』と言った。」

 


 宣教の題である「まことの王は誰か」とは、「自分は誰の声を聞いて動いているか」を問うことです。

 ピラトは、6節まではイエスを無罪としつつ「自分たちでイエスを十字架につけよ」と自己中心的に振る舞いますが、7節からは「神の子」という言葉に囚われて神の裁きと刑罰を恐れ、イエス釈放に努力します。ところが12節からは「カイザルに背く」との言葉に動かされて裁判を開き、公式にイエスを十字架刑で処罰します。このように、ピラトはその時々でいろいろな声に聞き従いました。ピラトの心の奥に恐れがあったからです。人の顔色を恐れ、神に罰せられることを恐れたのです。

 イエス・キリストは、私たちが従うべき「王」です。「さあ、この人です」(5)は別訳で「この人を見よ」です。聖書は、ここでのイエス様の姿に注目するように招きます。それは、むち打たれた体にいばらの冠と紫色の着物をつけた、「あざけられた王」の姿です。

 イエス様のこの姿には、私たちが日々重ねている罪の現実が投影されています。私たちの罪のために、イエス様は「あざけられた王」の姿になっています。しかし聖書は、「ここに愛がある」と語ります(Ⅰヨハネ4:9,10)。「あざけられた王」である姿のイエス様を私の王として迎え、その言葉に従う者でありましょう。