ヨハネの福音書5章1〜9a節
「よくなりたいか」
エルサレム神殿の北側に羊の門があり、そこから200mほど離れたところに「ベテスダの池」という5つの回廊を備えた沐浴所があった。そこには、「大ぜいの病人、盲人、足のなえた者、やせ衰えた者たちが伏せっていた」(3)。彼らは、ベテスダの池に伝わる“いやしの効能”に生きる望みを託していた。
そこに、38年も病気で苦しんでいる男がいた。主イエスは彼を見出し、近寄ってこう言われた。「よくなりたいか。」(6)「起きて、床を取り上げて歩きなさい」(8)。つまり主イエスは、「よくなれ」と病気から回復するように命じられたのである。これは、神の権威ある言葉であり、この男はそのとおりにいやされた。実にあざやかな回復だった。
私たちも病のいやしを祈る。しかし、彼のようにいやされる場合は珍しい。なぜ、いやされないのか。理由はわからない。しかし、病があったとしても、主イエスはその人を手放しておられない。なぜなら、イザヤ53:4にあるように、主イエスは私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださるからである。主は私たちから病を引き取り、病に関わる全ての痛みと悩みを知っていてくださる。いやされない病であっても、主イエスはその病を背負っておられる。
私たちは、主のものは主に任せなければならない。病のいやしは主の御手の中にあり、主のものである。私たちがすべきことは「床を取り上げる」ことである。すなわち、神の恵みによって自分を悔い改めること、悔いた分だけ人を愛して生きることである。それが神を愛する生き方である。
「起きて、床を取り上げて歩きなさい。」(8節)