ヨブ記29章1〜25節
「喪失の先にあるもの」
ヨブの独白とも言える言葉である。ヨブは何かを訴えるのでもなく、誰かに理解を求めるのでもなく、心にあることを語る。「ああ、できれば、私は、昔の月日のようであったらよいのに。」(2)ヨブは災いに遭う前の幸せな日々を思い起こす。子どもたちに囲まれた幸せな時間。事業は成功を収め、その地方で一番の富豪となった栄光。ヨブは貧しい人々に助けの手を差し伸べ、弱い立場の人たちから感謝され、地域の人々から尊敬されていた。
ところが災いによってすべては失われ、ヨブはすべてを失う喪失体験をした。人々は手のひらを返したようにヨブをあざ笑い、友人たちはヨブが罪を隠していると責めた。妻も、神を信じようとするヨブをあざけった。これまで祝福と恵みをくださった神までも、ヨブから離れ、ヨブを無視しているように思われた。
私たちも、何かしらの喪失経験をしている。東日本大震災から10年を迎えたが、震災によって喪失した日々は、まだ続いている。コロナで様々な機会やチャンスを失った人たちもいる。残念なことに、この時代は“失ってつらい”という気持ちを言いにくい。友人には“重い話だから”と気を使う。言ったとしても、受け止めてもらえなかったら自分が傷つく。それも怖い。喪失体験が人を孤立させ、痛みは深まる。
ヨブのかつての日々と、目の前の現実では激しい落差がある。ヨブは苦しみの暗闇に一人、取り残されている。しかし、それでもヨブは神を語った。「私がまだ壮年であったころ、神は天幕の私に語りかけてくださった。」(4) ヨブは意識していないかもしれないが、ヨブは神を求めていた。ヨブの独白は、祈りであった。
「私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。」(ローマ8:26) ヨブは祈れなかった。うめくだけだった。しかし神は、このうめきを祈りとなし、代わりに祈ってくださる。嘆くことしかできない時でも、神はおられる。喪失の先に、神がおられる。それ故、神に嘆くことには意味があり、虚しく終わらない。