ヨブ記8章1〜22節
「神を求める人」
ヨブの友人ビルダデは、3人の友人と共に、災いを受けたヨブを見舞いにやってきた。ビルダデはヨブが弱々しくなり、罪を懺悔すると思っていたのだろう。予想に反して、ヨブが自分の生まれた日を呪うのを聞いたため(3:1〜3)、ヨブをたしなめる。
ビルダデは、あなたの言葉は「激しい風のようだ」と語る(1)。確かにヨブは「なぜ、私をあなたの的とされるのですか」と、神に自分を苦しめる理由を求めた(7:20)。そんなヨブの態度をビルダデは叱り、自分の信念を披露する。「神は公義を曲げるだろうか。全能者は義を曲げるだろうか。」(3)つまり“神のなさることはすべて正しく、神の正義に基づいている”というのである。
そして「もし、あなたの子らが神に罪を犯し…」と言って、“ヨブの子どもたちは何かの罪があった”と主張する。ヨブの子どもたちは大風のため、家の下敷きになって亡くなった。ビルダデはそれを“神に罪を裁かれ、報いとして死んだ”とする。
しかし、聖書の神はこのようなお方ではない。神は世の罪を裁き、悪に報いる方である。しかし罪を裁くよりも、人が悔い改めて生きることを願うお方であり(エゼキエル33:11)、人が神に帰るのを忍耐深く待っておられる(Ⅱペテロ3:9)。神は、本来ならば人が背負うべき罪の報いをひとり子イエス・キリストに負わせ、十字架で罰して神の正義を貫かれ、救いの道を拓かれた。聖書の神は因果応報でなく、忍耐と赦しの神である。
ビルダデは自分の信念を杓子定規にヨブに当てはめ、ヨブの間違いを正したつもりだった。しかしヨブは神を信じていた。神を救い主と信頼していたからこそ、ヨブは神に訴えた。
神を信じることは、神というお方を信頼することである。私たちは日々の生活の中でみことばをいただきながら、神に信頼することを学ぶ。苦しみに出会う時には神に嘆き、神に問いかける。そこから祈りの言葉を獲得し、また深く神を知る。
ヨブの苦しみは続く。しかし神はヨブの信頼を裏切るお方ではない。神への嘆きやうめきはパズルの小さな1ピースとなって、“神を知る”という大きな絵となるのである。