ローマ人への手紙8章1〜11節

「いのちの御霊の原理」

 

 「こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。」(1,2) 

 

 ここに「罪と死の原理」とある。神に従おうとするのに、自分の内に悪が宿っていて、神に背くように仕向けてしまうというのである。「私は、ほんとうにみじめな人間です」と、パウロは自分の素直な気持ちを語る(7:24)

 

 主イエスを信じる前、パウロは誰よりも律法に熱心であり、自分を追い込んで神に従っていた。あの時には、自分のことを“みじめ”とは思わなかった。しかしパウロは主イエスに出会い、主イエスにある平安を知った。と同時に、主イエス抜きで律法を守っても所詮、自己満足の粋を出ないと思い知らされた。主イエスの恵みを知ることで、自分のみじめさに気付かされたのである。

 

 しかしパウロは今、主イエスの恵みに生かされている。この恵みを、パウロは「いのちの御霊の原理」と呼んだ。主イエスを知ってもなお、自分は罪に振り回され、罪との戦いに負けてしまうことがある。しかし「神の御霊があなたがたのうちに住んでおられる」。この「あなたがた」とは、主イエスを告白した者の集まり=教会である。自分が教会につながっている。「もし、神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいる」(9)。教会を通して、私たちは“御霊とのつながり”の中に生かされているのである。

 

 御霊は「御霊の初穂」と言われる(23)。主イエスを知る喜びも神に従う平安も、御霊がしてくださる恵みの“最初の収穫分”に過ぎない。御霊はやがて、さらに多くの恵みを与えてくださり、私たちの救いを仕上げてくださる。これは神の御手による確かな約束であって、私たちの罪によって阻止されることはない。この御霊の働きによって、私たちは世の苦しみにうめくことがあっても、それは単なるうめきではなく、希望に向けてのうめきとされている(23)。私たちは、この確かな約束に生かされている。