創世記21章1〜7節
「笑いをくださる神」
神様は約束されたことを必ず実現される。サラは男児を出産し、その子は「イサク」と命名された。その意味は「笑う」。サラは言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」(7) 自分に与えられた恵みに、“信じられない!”と言わんばかりに感動するサラの姿を思い浮かべることができる。サラは心から喜んで笑っている。
しかしこの時まで、サラは心から笑うことができなかった。創世記18章で御使いがアブラハムの家を訪問した時のことである。御使いは、“来年の今頃、サラに男の子が生まれている”と語った。それを聞いたサラは心の中で「老いぼれてしまった私に、何の楽しみがあろう」と笑った(8:12)。サラは御使いの言葉を“理不尽な要求”として受け取ったのではないか。“そんなこと言ったって、どうしろというのですか”と。理不尽な要求を突きつけられたと思う時、人は冷ややかに笑う。
サラは、神様の約束を信じることができなかったと言える。しかし神様の約束は信仰の限界を超えて、豊かに実現された。「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」(1) God is good. 神様は良いお方である。神様が良いことをしてくださっていることを知る時、私たちは心から笑う。
私たちは、神様の約束をいただいている。聖書である。では、私たちは聖書をまっすぐに信じているだろうか。聖書のことばに触れ、“神様は良いお方である”と心から笑えるだろうか。サラのように、聖書のことばを“そんなこと、あるわけがない”と受け止めないで読んでいることがあるのではないか。しかし、それでも神様は私たちに良いことをしてくださる。私たちの信仰の限界を超えて、聖書のことばが豊かに現実となっている。その事実に目が開かれる時、私たちは“神様は良いお方である!”と、心から笑う。神様は「笑いをくださる」お方である。
「主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。」(1)