士師記19章1〜30節
「王なき時代の混迷」
士師記19〜21章で、ベニヤミン族は存続の危機に立たされる。イスラエルの民の霊的混迷は、ここに極まる。
ひとりのレビ人が、エフライムの山地からベツレヘムへ向かった。自分のそばめを実家から連れ戻すためである。その帰り道、事件は起きる。彼らはベニヤミン族のギブアという町で夜を明かすことになった。広場で出会った老人に泊めてもらったが、夜、町のならず者たちが旅人を「知りたい」と襲ってきた。犠牲になったのは、レビ人のそばめだった。夜通し乱暴され、息を引き取ったのである。彼はそばめの遺体を切り分けて国中に送りつけると、ベニヤミン民族の罪を野放しにできないと、40万の兵士が集まった。
このレビ人は自分のそばめに対する愛情はなかったが、そばめを失ったことに憤っていた。被害者意識にとらわれていたのである。20章で彼は、自分に都合の良い演説をした。自分がそばめを引き渡したことは隠して、ギブアの町全体が残虐な罪を犯したように語った。ひとりの人の仕返しが、ベニヤミン族を存続の危機へと向かわせたのである。
自分に都合の悪いことを認めず、何でも人のせいにする人がいる。それは、聞き従うべき王をもたない人の特徴である。キリスト者は、主イエスのみことばに従って生きる。人を責めるより、自分の足りなかったところを悔い改める。それは損をするな生き方かもしれない。しかしキリスト者は、主イエスから永遠のいのちという、換え難い恵みをいただいている。大いなる得の故、十字架の道で損を選び取るのである。
「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた。」(17:6)