マタイの福音書28章16〜20節
「わが神の名はインマヌエル」
小林和夫師
復活されたイエスさまの昇天の場面である。11人の弟子は、ガリラヤでイエスさまにお会いして礼拝したが、ある者は確信を持てずにいた。これが弟子たちの現実であった。
18節に「イエスは近づいて来て」とある(18)。マルコとルカは、イエスさまの昇天を“弟子との別れ”として書くが、マタイは別れの言葉を使わない。マタイは“去り行くイエスさま”ではなく、“近づいて来るイエスさま”を描いている。そして、その結びとしてこう書き記す。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」(20)
「見よ」は、“よござんすか”と訳したい。健やかな日も、病む日も、得意絶頂の日も、失意落胆の日も、「よござんすか、わたしはあなたと共にいる」とイエスさまが約束しておられる。
エゴ―・エイミー。イエスさまがご自分を語る言葉である。これは、“わたしの他にこのような者はいない”というイエスさまの宣言でもある。ヨハネの福音書では、いのちのパン、世の光、良い羊飼いなどと言われるが、マタイの福音書では、「ともにいます」と言われる。これは、マタイが用いたイエスさまの固有の名前である。“わたしこそ、あなたがたと共にいる者だ”と主は言われる。
ここで、預言者イザヤが語った「インマヌエル」という名前を思い起こしたい(イザヤ7:14、8:8)。この名前はイザヤから700年余り、旧約聖書の中に冷凍保存されて来たが、イエスさまの誕生物語において掘り起こされた。マタイは「その名はインマヌエルと呼ばれる」と書き記すことによって、救い主の名前がインマヌエル(神は私たちと共におられる)であることを示した。
私たちは「インマヌエル」の意味を知っているつもりだが、額面通りその恵みを受け止めているだろうか。イエスさまは人となり、十字架で死なれたが復活され、私たちと共におられる。私たちは弱さのゆえに、神さまを遠くに感じることもあろう。しかし私たちの神は、WITH US GOD(私たちといっしょにいる神)であり、“わたしはあなたがたと共にいる”と約束しておられる。私は神のものであり、主イエスは私のものである。(まとめ:佐野泰道)