申命記28章1〜68節

「町にあっても、野にあっても」

 

 地上の時間が少ないと知ったモーセは、イスラエルの人々の前に2つの道を示し、決断を迫った。一つは祝福の道。主に従い、主の命令を守って生きる。その者には神様の祝福が向こうから近づいてくる。もう一つは、のろいの道。主に背き、主の命令を無視して生きる。主はその者に裁きとのろいをお与えになる。

 モーセは、のろいの道がどんなに惨めで恐ろしい道なのかを語る。仕事も家庭も健康も、すべてが壊れてしまう。様々な病気に苦しめられる。悲惨の極みは、食べ物がないために我が子を食べるようになるという予告であろう。事実、後のヨラム王の時代に、これは現実となった(Ⅱ列王6)。

 イスラエルの人々は間もなく、約束の地カナンに入る。そこには様々な民族との戦いもあるが、目新しく魅力的な文明・文化があり、それが他の神々を求めさせる罠になる。イスラエルの人々は、これまでも誘惑に負け、主に背いてきた。モーセは、人々の行く先を憂いている。何としても祝福の道を選びとって欲しいと願っている。同様に、神様は私たちにも祝福の道を選び取るように招いておられる。それは明日、主に従うことを、今日、決断するということである。

 私たちは、明日のことで何かを考えるとすれば、心配や不安ばかりではないか。しかし私たちは、明日どのように神様のために時間を使おうかと考えることもできるはずである。主イエスは「明日のための心配は無用」と言われた。神の国を求めよ、そうすれば必要はすべて足りる、と。

 

 「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。」(マタイ6:33)