コリント人への手紙第一11章23〜34節
「主イエスを分かち合う教会」
(年間聖句①)
教会では月1回、聖餐を祝う。聖餐で使われるパンと杯はそれぞれ、パンは十字架で裂かれた主イエスのからだ、杯(ぶどうジュース)は十字架で流された血を指し示す。
主イエスはパンを取り、「これはあなたがたのための、わたしのからだ」と言われた(24)。この言葉は、聖餐を受ける私たちに主イエスの贖いを思い起こさせ、自分の罪が完全に赦されていることを確信させる。それと同時に、贖われた私たちが「わたしのからだ」、すなわち「キリストのからだ」である教会(12:27)に加えられていることを再確認させる。
自分のような人間が「キリストのからだ」と言われ、聖なる主イエス様の一部のように見なされるとは、何と畏れ多いことか。過分な恵みを受けた者として、“ふさわしく生きているか”という自己吟味が求められることになる。それが、聖餐の「自分を吟味して、その上でパンを食べ、杯を飲みなさい」という言葉に込められている。
どんな人が、聖餐を受けるに“ふさわしい”のか。それは、教会のひとりとして兄弟姉妹と共に生きる人です。パウロは「食事に集まる時は、互いに待ち合わせなさい」と(33)、当時の奴隷たちが仕事を終えるまで食事をしないようにと命じた。社会では共に食卓を囲むことはない奴隷と自由人が、教会では身分の違いを超えて共に食卓を囲む。そうやって共に生きるための努力は、聖餐にふさわしいのである。主を分かち合う教会は、喜んでこの努力に生きる。
「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血にあずかることではありませんか。私たちの裂くパンは、キリストのからだにあずかることではありませんか。」(Ⅰコリント10:16)