テサロニケ人への手紙第一5章1〜11節
「主とともに生きるため」
主の日とは、主イエスが「この天地は滅びます」(ルカ21:33)と語られた時、「新しい天と新しい地」(黙21:1)が到来する時である。人間には、それがいつなのか、予測・予知できない。
神様は、私たちが滅びることなく「主イエス・キリストにあって救いを得るように」定められた(9)。私たちは罪深い姿であるのに、主イエスを羽織ること(=主イエスを信じること)で「光の子ども、昼の子ども」とされる。
主の日を信じない者たちは、「平和だ、安全だ」と言う(3)。どんな世の中の動きに敏感であっても、神様が定められた時を見ない・認めないのは、眠っているか酔っているのと同じである(7)。しかしその者たちに、主の日は「夜中の盗人のように」(2)到来し、滅びが襲いかかる。
「光の子ども」とされたキリスト者にも、主の日は突然来る。しかし、主イエスによって「目ざめていても、眠っていても、主とともに生きる」ようにされているので(10)、滅びに襲われることはない(4)。それ故キリスト者は、「ほかの人々のように眠っていないで、慎み深く」生きる(6)。
「慎み深く」とは、落ち着いている様子である。主の日が来るからと言って、むやみに恐れたり慌てたりしない。かえって、主の日を見据えて、“今すべきこと”と“今できること”に集中する。今は今しかない。みことばによって教えられ、祈りの中で気付かされて、主の日を見据えつつ今を生きる。
「主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。」(10節)