詩篇62篇1〜12節

「黙って神を待ち望む」

 

 作者は、自分を陥れようとする悪巧みや策略があることを感じていた。そのために緊張を強いられ、「ぐらつく石垣のよう」(3)に激しく動揺し、弱り果てていた。「いつまで」これが続くのかと途方に暮れながら、作者は語る。「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。」(1)

 

 作者は自分に言い聞かせるように「黙って、ただ神を待ち望む」と語ることで、神に集中しようとしている。神を信じようとする気持ちと、恐れに負けそうになる気持ちが交錯する。1節2節とほぼ同じ言葉が5節6節でも繰り返されるのは、揺れ動く作者の心を表していると思われる。

 

 神を頼ることは、人を頼ることと矛盾しない。神は人を通して私たちを守り、助けてくださる。しかし人は間違いを犯すことがあり、限界がある。それ故、私たちは人を頼りつつ、神ご自身を待ち望む。実に「待ち望む」ことは、神を求めることである。

 

 神は私たちを助けるために、天の御座から下って来てくださった。「神こそわが岩、わが救い、わがやぐら」(2)とある。神は天地の創造主であり、全人類の神であるが、私たちがこのお方を “私の神さま”と言えるほどに下って来てくださり、私の神になってくださった。神は私のそばに、私と共にいてくださる。

 

 作者は「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ」(8)と呼びかける。心を注ぎ出すとは、祈ることである。神はあなたの願いだけでなく、葛藤や嘆きをも受けとめてくださる。神はどんなことでも私たちの祈りを受け止めてくださり、「われらの避け所」(8)となってくださる。

 

 作者はこの時、「圧政」のように恐れで人をコントロールするような力や、「略奪」のように集団で・力づくで奪い取るような力を感じていた(10)。しかし神は「力は、主のものである」(11)と、みことばから語ってくださった。神の力が、すべてを支配している。私の将来も、神の力にかかっている。作者はみことばによって勇気を得た。そして自分を赦して受け入れてくださる神の愛を知り、「主よ。恵みも、あなたのものです」(12)と応答している。