詩篇66篇1〜20節

「神に喜び叫べ」

 

 「全地よ。神に向かって喜び叫べ。」(1) 作者の呼びかけは大胆だ。自分たちは何の権力もない一市民であるのに、全人類に向けて神を賛美するように命じている。作者だけではない。この詩篇を歌う人々は名もなき一信者に過ぎないが、「国々の民」に「私たちの神をほめたたえよ」と宣言している(8)。スケールの大きな呼びかけに対して、それを呼びかける人々の平凡さ。このギャップには、詩を歌う人々の信仰が光っている。

 彼らは言う。「さあ、神のみわざを見よ。」(5) 即座に、“私は何を見て生きているのか”と問われる。詩人は「神は海を変えて、かわいた地とされた」と歌う(6)。出エジプトの時、海が割れて、渇いた地を渡った。歴史に残る神の奇跡ではあるが、自分とは関係ないと思ってしまうほど昔の出来事。しかし詩人は、これを救いのみわざと見ているのだった。八方塞がりの状況でも、神は救いの道を切り拓いてくださった。そのような「神のみわざを見よ」と。

 今ここに、神はおられないのか。いや、そうではない。あの救いの出来事をなしたお方が、今ここにおられ、私の救い主でいてくださる。

 神様は私たちに祈りを与えてくださった。みことばは「あなたは私たちを調べ、…私たちを練られました」(10)と語る。私たちが経験する苦しみは、神様が私の役に立つものとして与えた、ということである。しかし現実に苦しみに直面していると、とてもそう思えない。このギャップの橋渡しをするのが祈りである。みことばをそのまま信じられなくても、「この苦しみが役に立つとは思えませんが、信じさせてください」と祈ることはできる。祈ることで、みことばを信じて待つ者とされる。祈りを重ねながら、全人類が神様を賛美する日が来る時を待ち望もう。

 

「さあ、神のみわざを見よ。」(5