第一サムエル記15章1〜35節
「サウルを悔やむ神」
神様はサウル王にアマレク人を「聖絶する」ように命じた。「聖絶」は神様の裁きであり、神様に代わって罪を罰する行為である。アマレク人はその昔、イスラエルの女性や子どもを襲うという残虐な罪を犯していた(申命記25:17)。その罪を罰する意味で、神様はアマレク人の女性や子ども、家畜までもすべてを殺すように命じた。しかしサウルは神様の命令に従うことを拒み、肥えた良品の家畜を惜しんでしまう。
「惜しい」「もったいない」という自分の欲望と「聖絶せよ」という神様の言葉は、どうやっても合わさるものではない。しかしサウルは、この2つを合理的に結び合わせて「主にいけにえとしてささげるためなら、残しても良いはずだ」という結論を出した。この決断は、結果的であったにせよ、これは神様を否定し・拒むことになった。
教会がみことばに従う姿勢を失ったら、教会は教会でなくなってしまう。人間的な欲望と神様のみことばを合理的に結び合わせるところには、落とし穴がある。教会は絶えずみことばによって自己の姿を点検し、みことばに従うことが教会の生命的な活力になるようにしなければならない。神様はみことばに従う私たち自身を最も喜ばれるからである。
サウルが神様を拒んだことにより、神様はサウルと共に歩むことができなくなった。その悲しみを「悔いる」と表現している(11,35)。神様が悔いるというのは、「サウルを王にするんじゃなかった」という後悔ではなく、サウルに拒まれた神様の悲しみを表している。みことばに従い、神様を悔いさせる(悲しませる)者でなく、喜ばせる者でありたい。
「主は主の御声に聴き従うほどに、全焼のいけにえや、その他のいけにえを喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」(22)