第2コリント1:3〜11
「主の慰めに生きる」
主イエスはよみがえられた。ハレルヤ。
気落ちしている時、私たちは慰めを必要とする。大切な試験に落ちた時、隣に座って黙って背中をさすってくれた人がいた。言葉は無かったが、涙が出るほど慰められた。しかし、その慰められた経験は、自分の死を間近にした時には無力だろう。人が与える慰めは、尊いけれども限界がある。
「神はどのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。」(4) 神様の慰めは「どのようなときにも」つまり、生きている時も自分の死を直前にした時でも、私たちを安心させ・励ましてくれる。なぜなら主イエス様が、私たちの救い主でいてくださるからである。
使徒パウロは非常に激しい試練に遭った時、「ついに、いのちさえも危うくなり、本当に自分の心の中で死を覚悟しました」と語る(8,9)。自分の死を前にした時、パウロは恐れおののいたのではないか。それで反射的に、自分の何かを頼ろうとしたのだろう。しかし、死を前にしては何の助けにもならなかった。その時、死の恐れの中で自分が信じてきた神を再認識した。私の神は「死者をよみがえらせてくださる神」ということが、今までになくリアルに迫ってきた(9)。
主イエスはイースターの朝、死に勝ち・死から復活された。復活の主イエスが、自分が死にゆく時にも私をつかんでいてくださり、天の御国に引き入れてくださる。主イエスこそ、生きる時も死ぬ時も私たちの慰めである。
教会は祈りによってパウロの試練を共有し、助かった喜びを共有した。主の慰めに生きるためには、“祈りの交わり”+“嘆ける交わり”が必要だろう。嘆きを聴いてくれる人がいて、その人に祈ってもらう。主の慰めが、そこにある。
神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも、慰めることができるのです。(4)