ローマ人への手紙8章25〜27節

「御霊の執り成し」

小林和夫師

 

 主イエスはヨハネの福音書において、繰り返し「助け主」に言及している(14:26,15:26,16:7)。「父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるため」(14:16)。主が私たちと共におられるためにくださる助け主。この御霊を肝に銘じたのがパウロであった。

 

 パウロはローマ7章で、「私は、ほんとうにみじめな人間です」と煩悶する自分をさらけ出している(ローマ7:24)。しかしパウロは、絶望の淵で自分を凝視していた目を主イエスに転じ、主イエスを見上げてこう言った。「キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。」(8:1)目を開かれたパウロは、御霊に注目し、御霊によって神を父と呼ぶ者とされたと語る。

 

 御霊は私たちと共にいて、弱い私たちを助けてくださる。私たちは神から忍耐と希望をいただいているが、それでも不安や焦りを感じてしまう。このような焦燥感からまったく自由だと言える人はいない。パウロも「心の中で呻きながら待ち望んでいる」と語る(8:23)。待ち望む状況は厳しいものであり、祈る勇気を失うこともある。祈れないことは、究極の弱さの一つではないか。人は様々な理由で祈ることができなくなるが、この弱さを包み込み・癒やしてくださるのが、御霊の執り成しである。

 

 パウロは信仰を失ったわけでもないのに奮い立たない自分の弱さを経験した。心は熱しているのに、身体が弱いのである。そんな中、パウロは御霊の底しれぬ恵みを知った。御霊が祈れない私たちを助け、執り成し祈ってくださる(26)。この恵みを発見した。

 

 自分がどう祈ればよいかわからなくても、御霊が私たちのためにうめいてくださる。私たちのために、御霊はうめきながら執り成してくださる。御霊の執り成しは、主イエスから継承された執り成しの祈りである。誰かのために祈ることによって、私たちも執り成しの祈りを継承し、栄光の働きに参与するのである。

 

 祈れない時、気落ちしてはならない。御霊が祈ってくださるからである。私たちは幼子のように御霊に委ねることができる。皆さんを御霊の慈愛に委ねます。(まとめ:佐野泰道)