コリント人への手紙第一13章1〜13節
「いつまでも残るもの」
パウロはかつて教会を迫害する者であった。ダマスコにキリスト者たちを捕らえに行く途上で、光の中で主イエスに出会う。主イエスを通して、パウロは神の愛を知った。
パウロはこの手紙の後半で、神の愛について書き記した。その目的として考えられることが2つあった。1つは、コリント教会の人々が、神の愛を知ることである。ぜひ4節から7節を、「愛」を「イエス・キリスト」に置き換えて読んでいただきたい。神がどのように私を愛してくださっているか、具体的なこととして神の愛を知ることができるだろう。
もう1つの目的は、コリント教会が神の愛によって、自分の愛を点検し、神の愛に生きるようになるためであった。1節には「異言」が登場する。異言は自分を高める作用があるが(14:4)、御霊の賜物として与えられなければ語ることはできない。コリント教会では、異言を自慢気に披露する者がいたようである。パウロは、そんな異言はやかましいシンバルであると戒める。パウロの意図は、神の愛に生きているか、自分を点検せよということである。
4節から7節を、自己点検のために読むならば、たいへん厳しい結果になる。「愛」を「私」に置き換えて読めば、一目瞭然である。そして“私には愛がない”と思うことになるだろう。
しかし、よく考えてみたい。私たち人間に、神の愛がないのは当然である。神の愛はアガペーの愛であり、見返りを求めない愛である。そのような愛は、人間には不可能である。しかし私たちは主イエスを知り、神の愛を知るに至った。それ故、神の愛に生きてみたい、神の愛で人を愛したいと願うようにされたのである。パウロは「愛を追い求めなさい」と語り(14:1)、私たちが神の愛から学び、神の愛を真似るよう勧めている。
神の愛を真似て人を愛することは、不格好な愛、不完全な愛である。しかし、そのような愛は「いつまでも残る」と言われる。それは「自分たちの労苦が主にあってむだでない」ということだろう(15:58)。愛そうとすれば葛藤が生まれ、労苦を伴う。しかしその労苦は主にあって無駄にならない。愛することを求めよう。