コリント人への手紙第一 6章1〜11節

「あなたがたは知らないのですか」

 

 パウロは、コリント教会の現状に心を痛めていた。教会の仲間の間で「争い」が起きた時、「それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え」たのであった(1)。これは、“問題が大きすぎるので教会内では解決できない”という判断の結果ではない。本来ならば教会内で解決できる争いなのに、「あえて」教会の外の人々に訴えたのである。パウロの戸惑いと嘆きは、「あなたがたは知らないのですか」という言葉に現れている。パウロはこの言葉を、6章で6回も繰り返している。

 

 パウロは何を問題にしていたのか。それは、“教会の中に、兄弟の間の争いを仲裁できる人がいない”ということである(5)。教会でみことばを聴き、神様に従うことを学んでいながら、教会は実際の問題に対して解決する力を失っていた。突き詰めるならば、それは“みことばを聞いていながら、みことばを生きることができていない”ということである。たとえば「愛は寛容である」と みことばを聞いても(13:4)、自分が誰かに寛容であろうとはしない。そのような教会のあり方を、パウロは問いかけている。

 

 もし自分が争いの渦中に入ってしまったら、どうするか。まず神の前に静まる。そして“どうすることが神様に従うことになるか”を祈りつつ考える。そういう痛みのある現場で、私たちはみことばを実践することを問われ、またみことばに生きることを学ぶ。

 

 私たちがみことばの実践を求められるのは、私たちが復活の身体をいただくことと関係している。死の後、私の身体は主イエスによってリフォームされ、美しく仕上げられて、再び私に与えられる。そうならば、今、自分の身体をどのように使うのかを考えたい。“最後に仕上げてもらえるなら、今は欲望のままに身体を使えばいい”と考えるだろうか。そうではなく、私は永遠においても私の身体を生きるのだから、今から身体を大切にし、意味のあることに身体を用いたい。人のため・神様のために身体を使わせていただきたい。すでに私の身体は「聖霊の宮」とされている(19)。聖霊の助けをいただき、みことばを実践することで、「自分のからだをもって、神の栄光を現」させていただきたい(20)