第一列王記1章1〜14節、28〜31節

「ソロモン王の即位」

 

 ダビデ王は歳を重ね弱っていた。すると人々の関心は、次の王が誰かということに集まる。そんな時、候補者の一人であったアドニヤは、元将軍ヨアブと預言者エブヤタルの協力を得て、王になろうと立ち上がった。

 しかしアドニヤは思い上がっていた。まずダビデ王の意思を聞かなかったという点で、これは幼稚な計画だった。しかもイスラエルにおいて、次の王を決めるのは神様ご自身である。神様の御心を仰ぐことなく、王になろうというのは霊的な思い上がりである。

 思い上がりは恐ろしいものである。調子に乗っている時、そんな自分の姿に気づき、自戒するのは容易なことではない。高ぶっている時には、私たちの心の王座に自分が居座っており、それは心地良いからである。

 人は、心の王座に自分を座らせたがる。自分が注目されること、自分の発言や判断が尊重されること、自分の都合のいいように事を進めることを願う。こういう時、“誰かのためにしている”つもりでも結局は自分のためだった、ということがある。人は自己中心の呪縛から自由になることは難しい。

 私たちは、心の王座に神様をお迎えしなければならない。自分は引き下がり、神様を王様とし、神様に従うのである。神様がおられることを信じ、神様が事を動かしていることを認め、神様が立てた人を受け入れる。それは一見、不自由で窮屈なように思える。しかしそれは「まことのいのち」である“神様との関係”に生きる道である。人は神様に従う時に、人を活かすことができ、自分も生かされる。

 

「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」(マタイ16:26