第一サムエル記29章1〜11節

「主の御手による守り」

 

 ダビデは疲れ果てていた。部下だけで600人、女性や子どもを含めるとさらに多くの人々を率いて、サウルの追手から逃げ続ける日々の中で、身も心も擦り切れていた。ダビデは連れの者たちの無事を考え、ペリシテ人の王アキシュの参加になると申し出る。ツィケラグという町の中で、久しぶりに心安らぐ環境が与えられた。子どもたちは笑い、老人は安心して眠った。しかしこの代償は大きかった。ペリシテ人とイスラエルとの全面戦争になり、ダビデは成り行き上、サウルに対して刃を向けるために出陣することになった。

 しかし神様は、特別にあわれみをかけてくださった。ダビデは、ペリシテ人の他の領主たちに謀反を疑われ、ツィケラグに帰されることになった。ダビデは表向きは「なぜ私が王様と一緒に戦いに出られないのでしょうか」と威勢を張るが、本心ではどんなに安堵したことか。サウルとヨナタンと戦わずに済んだのだから。しかも、ダビデが出陣した後、ツィケラグは襲われ、ダビデ一軍の女性と子どもたちが連れ去られていた。このタイミングで帰らなかったら、取り返しのつかないことになっていた。

 ダビデは疲れていたとは言え、神様とこの世の両方に仕えるような打算的・妥協的な生き方をしてしまった。そのために苦しみの実を刈り取ることになった。しかしそのように、自分で苦しみの種を蒔いてその実を刈り取ることになった時でも、私たちは神様の特別のあわれみを祈り求めて良いのである。神様はあわれみ豊かなお方である。

 神様の特別のあわれみをいただき、ダビデは信仰的に目を覚ました。その耳で神様のみことばを求め、その目は神様を見上げていた。私たちの信仰は目覚めているだろうか。

 

「私の助けは、天地を造られた主から来る。」(詩篇121:2