第2列王記10章15〜31節
「エフーの熱心」
エフーは歴代の王に仕える兵士の長であったが、アハブ王家とバアル礼拝を撲滅して北イスラエルの王となるよう、神に任命された。エフーは「主に対する熱心」として、北イスラエルのヨラム王と南ユダのアハズヤ王をはじめ、アハブ王の家系に連なる者たちを粛清した。そして「悪巧み」を計って偽りのバアル礼拝を招集し(19)、すべてのバアル信者を壊滅させた。
エフーは王座に着く前は、主のさばきの執行者として役目を果たし、主から「よくやり遂げ」たと評価された(30)。しかしエフーは、王座につくと主の律法に歩まず、ヤロブアムの罪から離れなかった(31)。つまりエフーは、主に熱心に従っているように見えたが、実は自分が王位に就くことに熱心だった。隠れた野心が、王座に就くことによって明らかになったのである。
人間の熱心さには、知らないうちに自分の願いや欲が混ざることがある。熱心にやっている時には気づかないが、あるところまでやり遂げると、隠れた本心が顔を出す。世のためだと思っていたが、ある時、間違った正義感でやってしまったと気づく。
これは信仰においても同様である。“主のため・教会のため”と思っていても、それがいつの間にか、自己実現にすり替わってしまうことがある。人は信仰における熱心さにおいても過ちを犯してしまうことを心に留めたい。
私たちは、どのようにして信仰の過ちに気づくことができるのか。それは、神ご自身の熱心さによる。神は、私たちにみことばを届け、みことばを成就させることに情熱と喜びを注いでおられる。「主のことばは一つも地に落ちない」のは(10)、みことばに魔術的な力があるからではなく、みことばが実現するために主が仕えていてくださるからである。
私たちは熱心にみことばを求め、説教に耳を傾ける。説教者も熱心に準備して語る。しかし説教は説教者と聴衆の熱心さによって成立するものではなく、主がみことばを届けようとして熱心に働いてくださることによって成立する。自分の熱心さで事を成すのではなく、みことばを届けようとする主の熱心さに信頼しよう。