第二列王記21章1〜18節

「汚された主の宮」

 

 南ユダ王国14代目の王マナセは、異教礼拝を最も盛んに行った。バアル、アシェラ、天の万象、卜占など、聖書に登場する異教の神々を信仰した。

 この時、南ユダは危機的な状況にあった。アッシリア帝国の脅威は、一般市民も肌で感じられるほどだった。誰もが“どうすれば自分たちの生活が守られるか”と考え、“どの神様を信じれば、守ってもらえるか”と問いかけた。

 マナセの父ヒゼキヤ王は祈りの人だった。神様はヒゼキヤの祈りを聞いて、一晩で185千人のアッシリア軍を滅ぼされたことがあった。しかしどういうわけか、マナセは正反対の道を選んだ。まことの神様を退け、その他多くの神々を持ち込んだ。神殿内にも異教礼拝の像や祭壇が置かれた。神様は深く悲しまれたに違いない。なぜなら神殿は、主がかつて「わたしの名を置く」と言われた場所だからである。

 「名」はその存在を意味する。神様が「わたしの名を置く」と言われたのは、神様がご自分の存在にかけて、“わたしが守りわたしが救うから大丈夫だ”と約束されたということである。私たちは人生の紆余曲折を経験し、神様と取っ組み合いをしながら過ごす日々もあるが、それも“神様の守り”の中にある。私たちには“神様の名”が置かれている。恵みによって、神様の愛と守りの約束の中に入れられているのである。

 もし神様との関係が切れてしまったら、罪が私の主人になり、滅びが横たわることになる。罪は滅びを招く。主に従い・主の約束に堅く立とう。主は滅びを望んでおられない。

 

「もし彼らが、わたしの命じたすべてのこと、わたしのしもべモーセが彼らに命じたすべての律法を、守り行いさえするなら、わたしはもう二度と、彼らの先祖に与えた地から、イスラエルの足を迷い出させない。」(8