第2列王記24章1〜24節

「バビロン捕囚のはじまり」

 

 預言者エレミヤは、神による罪のさばきとして、南ユダ王国がバビロン帝国によって滅ぼされると預言した(エレ25:9)。この言葉を聴いて人々は断食して悔い改めたが(エレ36:9)、エホヤキム王は最後まで反抗的だった。エレミヤの言葉を小刀で切り取り、燃える暖炉に入れて燃やしたのである(エレ36:23)

 しかし神の言葉には真実である。どんなに神の言葉が切り刻まれ・燃やされても、エレミヤの預言のとおりになって行く。南ユダ王国はバビロン帝国に3ヶ月間包囲された後、ついに降伏した。エホヤキン王は捕らえられ、主だった人々と共に捕虜としてバビロンに連行された。バビロン捕囚の出来事である。

 すべての罪は、神によってさばきを受ける。神は厳粛に罪のさばきをなさるお方である。さばきのメッセージを聞くことに、私たちは抵抗を感じるかもしれない。しかし耳を傾けるべき、大切なメッセージである。この言葉を前に、私たちはどうすればいいだろうか。どうか神が、さばきのメッセージを正しく受け取らせてくださいますように。

 このさばきは「主の怒りによるもの」とされる(20)。神の怒りと聞くと、何かが破壊されることや天変地異による災いを連想するかもしれない。しかし神の怒りとは、罪を厳粛におさばきになる神の行為である。

 神の怒りが歴史上において最も顕著に示されたのは、主イエス・キリストの十字架においてであった。神の御子が、私たちの罪のために罪の罰を受けられた。罪のないお方が、私たちの代わりに罪人としてさばかれた。あの十字架において、私たちのすべての罪はさばかれたのである。これによって私たちは、主イエスの十字架による“罪の赦し”が確定した。

 バビロン捕囚という神のさばきが行われた。しかしその渦中においても、神はエレミヤやエゼキエルといった預言者たちを通してみことばを語っておられた。神の救いの御手は伸ばされていたのである。みことばが語られるところに、救いの御手は伸ばされている。みことばに聴き従い、救いの御手をつかんで歩もう。