イザヤ1章1〜20節

「雪のように白くなる」

 

 イザヤは20歳前後で預言者となり、南ユダ王国が滅亡するまで50年にわたり、みことばを語り続けた。

 当時、アッシリア帝国は最大の脅威であり、国が立つか倒れるかの瀬戸際であった。南ユダはアッシリア対策として、周辺諸国との同盟関係を結んだり、神様へのいけにえや祭りを絶やさないことなど、できることを行った。しかし南ユダは肝心なことを見落としていた。それは神様にへりくだり、神様のみことばに従い・実践することである。

 「ああ、罪を犯す国」(4)と、神様は人々の普段の姿を見て嘆く。人々の礼拝は形式的であって、その心は神様に向いていなかった。彼らは社会的に弱い同胞を虐げ、その命を脅かしていた。みことばは普段の生活で実践されることなく、投げ捨てられ・踏みつけられていた。

 神様は「さあ来たれ。論じ合おう」と人々を招かれる。あなたがどれくらい的はずれなのかを論じ合おうではないか、というのである。みことばの光が私たちの心に差し込むと、その聖なる光によって罪が自覚される。私たちは「ああ。私はもうダメだ」(6:5)と聖なる絶望へと追い込まれる。

 しかしその時、神様は私たちの予想に反して、罪の赦しを宣言される。「罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。」一度、緋色に染めた布は白に戻せない。しかし神様は、罪に染まった人間を白くすると宣言される。どんな罪であっても、神様に赦せない罪はない。「白くする」との宣言の通り、神様は私たちを赦し、新しくしてくださる。神様に対してへりくだり、みことばに従い・みことばを実践しよう。

 

「『さあ、来たれ。論じ合おう。』と主は仰せられる。『たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。』」(18)