イザヤ21章1〜10節

「神を指し示す人」

 

 「海の荒野に対する宣告」とは、バビロン滅亡を語る預言である(1)。その滅亡は「エラム」と「メディヤ」というバビロンの隣国によってもたらされる。イザヤは「きびしい幻が私に示された」と言うが(2)、幻の具体的な内容についてこれ以上は語らない。

 

 その代わりに、イザヤが幻に戦慄する様子が詳しく語られる。イザヤは苦痛で満たされ、耐えられないほど心が乱れた。恐怖に震え上がり、たそがれから暗闇になることを恐れた。

 

 イザヤが苦悶する姿は、何を表しているのか。神はバビロンをお裁きになる上で深い憂いを抱えておられ、幻によってその憂いをイザヤに分かち合われたのではないか。イザヤが取り乱す姿には、人々の救いを願う神の心が表れているのではないか。

 

 神は今も教会(キリスト者)を通して、神がこの世におられることと、神を求める者には救いが与えられることを示しておられる。神は預言者ヨナにも“敵国ニネベを惜しまずにいられない”と語られたように(ヨナ4:11)、神は「ひとりでも滅びることを望まず」(Ⅱペテロ3:9)、人が神を信じて救われることを願っておられる。しかし、“もうこれ以上は”という時には、バビロンのように罪に対する裁きをお下しになる。

 

 神は今、教会に「見張り」の役割を与えておられる。「さあ、見張りを立たせ、見たことを告げさせよ。」(6) 見張りとは、神がなさることを見て、それを人々に伝える者である。見張りのために必要なことは、自分自身が神の方を向いていることである。

 

 私たちは罪の性質によって心が傾いており、自然と神から離れる方に向いてしまう。勝手に心の雑草が生え、高慢の蔓が伸びてくる。そのため、礼拝でみことばを聴くことを通して、心の向きを整えていただかなければならない。時にみことばは難解であるが、その時にわかる範囲でみことばを受けとることが必要である。

 

 たとえ見張りの役を任されていると言っても、コロナや災害における神の御心など、私たちにはわからないことも多くある。しかし私たちは自分が神の方を向き、みことばを受けとめていくことを通して、神を指し示す存在として用いていただきたい。