イザヤ22章1〜14節
「荒布をまとえ」
「幻の谷に対する宣告」である(1)。「幻の谷」とはエルサレムのことだと言われる。当時、すでに隣国の北イスラエル王国は滅亡しており、アッシリア帝国の脅威は目前に迫っていた。しかしエルサレムは「飲めよ。食らえよ。どうせ、あすは死ぬのだから」と楽しみ喜んでいる(13)。
「どうせ明日は死ぬ」と語る人々には、悲壮感は感じられない。むしろ、アッシリアに負けるわけがないと高を括っているのである。彼らは堅固な城壁と、蓄えられた武器と、豊かな水源を持っていた。神様は、このような姿を見て「おごった都よ」と傲慢なエルサレムを嘆かれた(2)。
そんなエルサレムに、神様は呼びかける。「泣け、悲しめ、頭を丸めて、荒布をまとえ」と(12)。アッシリア軍は、神様がイスラエルの罪を裁くために送ったものだった。なおも罪を自覚せず、悔い改めようとしないイスラエルに対して、神様は「荒布をまとえ」と悔い改めへと導く。悔い改めるならば、神様は赦してくださる。実に神様は、イスラエルがアッシリアによって滅ぼされるのでなく、悔い改めて生きることを願っておられた。
今も神様は、私たちが神様に罪を悔い改め、神様によって生きるように招いておられる。神様の願いは私たちが「悔い改めて、生きる」(エゼキエル33:11)ことである。「どうせ明日は死ぬ」とは、死に向かっている者の言葉であって神様を悲しませる。神様によって生きる者は「主の御心なら私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう」(ヤコブ4:15)と、神様に頼りつつ生きることに向かう。与えられている命に感謝しつつ、与えられている機会を用いて、神の家族とともに神様を喜び楽しむ者でありたい。
「泣け、悲しめ、頭をまるめて、荒布をまとえ。」(12)