イザヤ28章14〜22節

「最後まで残る礎の石」

 

 「他人の不幸は蜜の味」という言葉がある。南ユダ王国は隣国である北イスラエル王国がアッシリア帝国に滅ぼされたのを見て、ほくそ笑んでいた。北イスラエルはアッシリアと戦う姿勢をとったが、南ユダはそれに組みせず、早々にアッシリアに貢物を送って同盟を結んでもらっていた。それが功を奏した形となったのである。南ユダはアッシリアが味方であるから、自分たちはどんなことがあっても安全だと思い込んでいた。

 

 しかしイザヤは、そのような南ユダを痛烈に批判する。アッシリアとの同盟は「死と契約を結び、よみと同盟を結ぶ」ようなもので、そこには死しかない、と(14)。大いなる危機が襲いかかり、「あなたがたはそれに踏みにじられる」と(18)。その日、神は大いなる力によって、あなたがたをお裁きになる、と(21)

 

 イザヤはこの時、南ユダ王国が神に裁かれることを預言しつつ、もっと大きな神の裁きについて語っていた。「私は全世界に下る決定的な全滅について聞いているのだ。」(22) イザヤはいつの日にか、地球規模でなされる神の裁きについて預言したのである。

 

 「全世界に下る決定的な全滅」がいつ訪れるのかは語られていない。しかし、救いの約束がはっきりと示されている。「見よ。わたしはシオンに一つの石を礎として据える。これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。これを信じる者は、あわてることがない。」(16) 神は礎として「一つの石」を据えると言われる。その「かしら石」は建物全体の重さを受け止める重要なものである。この「一つの石」を信じることで救われる。

 

 この「一つの石」こそ、主イエス・キリストである。主イエスを信じることにより、私たちは「生ける石として、霊の家に築き上げられ」(Ⅰペテロ2:5)、幾千幾万の神の民に加えられる。

 

 主イエスを信じるとは、自分の人生もすべての重荷も「一つの石」である主イエスに預けたことを意味する。私たちは人生の大波・小波に翻弄されるが、神は私たちのすべてを引き受けていてくださる。主イエスを信じて「一つの石」の上に組み合わされた私たちは、何があっても動かされることはないのである。