イザヤ35章1〜10節
「見よ。あなたがたの神を。」
神の救いは不思議で力強く、慰めに満ちている。「荒野と砂漠は楽しみ、荒地は喜び、サフランのように花を咲かせる。」(1) その救いの御業は、砂漠や荒野に花が咲き乱れるようになることに喩えられる。神の御業によって、すべてが新しく造り変えられる。
砂漠が植物のいのちを奪うように、私たちは何かによって生きる意欲を奪われることがある。疲れの蓄積や別れの経験、ショッキングな出来事など様々なことが原因となって、私たちは生きることに躓いてしまう。今もコロナウイルスにより、学ぶ機会や発表の機会などを失い、気持ちが落ちてしまうこともある。
また砂漠には、人間が長い時間をかけてもたらした結果という一面がある。経済活動や利便性を追求する中で、気づいた時には自然環境が破壊され、砂漠化が進んでいた。これは人間の罪性と似ている。罪の性質は自然にしていることの中に影響を与え、いつの間にか心が渇いたり、関係がギスギスしたり、好きだったものが色褪せて思えるようになる。
しかし神は、そのような砂漠や荒地に「花を咲かせる」と約束された(1)。私たちの日常が何かによって飲み込まれてしまうことも、自分自身が砂漠のように渇いてしまうことも、神がそのことを受けとめ、神によって新しい姿に造り変えられるのである。
この救いに基づいて、「弱った手を強め、よろめくひざをしっかりさせよ」と命じられる(3)。心が騒いでしまう私たちに、「強くあれ、恐れるな。見よ、あなたがたの神を」と語り(4)、神の救いを見るように促している。神が新しくしてくださることを信じることにより、神にあって諦めないという姿勢が造られる。
「そこに大路があり、その道は聖なる道と呼ばれる。」(8) その大路は神の都シオンへと続いており、シオンに入る時には「とこしえの喜び」をいただき、「悲しみと嘆きとは逃げ去る。」(10) 私たちは偉い者でも正しい者でもないが、「主に贖われた者たち」とされている。教会の仲間と共に、この大路を歩くように招かれている。神にあって諦めることなく、主を信じて、この大路を進んでいきたい。