イザヤ36章1〜22節

「人々は黙っていた」

 

 ついに恐れていたことが起きた。南ユダ王国にアッシリア帝国の王セナケリブが攻めて来たのである。時は「ヒゼキヤ王の第14年」、紀元前701年とされる(1)。この時ヒゼキヤは全面降伏して貢物を納めた(第2列王18章)。

 それから12,3年の時間が経過した。その間にヒゼキヤ王は、アッシリアの支配が緩んだのを見てエジプトと手を組み反逆を試みた。しかしアッシリアは甘くなかった。報復として20万の軍隊が派遣され、エルサレムは完全に包囲された。

 このような時に問われるのは「何に拠り頼んでいるのか」ということである(4)。ヒゼキヤは主を信頼し、国内で宗教改革を行い、人々の信仰を立て直してきた。しかし敵の将軍ラブ・シャケは、信仰を「口先だけのことば」(5)であり(14)、何の戦略にもならないと非難した(5)。確かにヒゼキヤに策はなかった。しかし部下たちに「彼に答えるな」と命じ、沈黙を守らせた。

 私たちが神様に信頼しようとする時、ここでのヒゼキヤのように信仰の逆風、すなわち“神様を信じても無駄ではないかと思わせるもの”が立ちはだかることがある。その第一は、自分たちの弱さ、乏しさである。敵に対して自分たちが非力過ぎるために、神様に頼っても無理だと思い込むのである。

 しかし、神様を信頼するのに、自分の非力さを計算に入れるとは大きな間違いである。神様を信頼する時には、いかなる自分も計算に入れず、ただ神様だけを見上げる。過去のことを問わず、先の結果を思い煩うこともせず、神様に集中し神様の可能性にかける。その姿が沈黙である。黙ることにより、「ただ神を待ち望む」ことができる。私たちの未来は神様によってのみ開かれる。沈黙できる信頼をいただこう。

 

 「私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。」(詩篇62:1)