イザヤ42章1〜9節

「いたんだ葦を折ることもなく」

 

 イザヤ42章には、神の救いをもたらす「わたしのしもべ」が登場する。『マタイの福音書』は、この「わたしのしもべ」とはイエス・キリストであると証言する(マタイ12:921)。イザヤ42:14の預言は、主イエスが安息日に片手のなえた男をお癒やしになった出来事において実現した。

 

 「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく」とある(42:3)。葦は折れると元に戻らない“もろさ”がある。この“片手が不自由な男”は「いたんだ葦」のように折れかけていた。あと一撃で打ちのめされてしまうほど、ギリギリの状態だったのだろう。

 

 また燈心とは、ろうそくなどの火が燃える芯の部分であるが、くすぶってうまく燃えないことがあった。この男は身体の苦しみを背負わされ、「くすぶる燈心」のように心がくすぶっていた。

 

 しかし主イエスは彼の心を知って言われた。「だれかが一匹の羊を持っていて、もしその羊が安息日に穴に落ちたら、それを引き上げてやらないでしょうか。」(12:11) この男は“穴に落ちた羊とは自分のことだ”と直感でわかっただろう。ここで主イエスは「一匹の羊を持っていて」と言われた。これは“持ち主にとって唯一の大切な羊”という意味である。主イエスはこの男に、“あなたはわたしにとって大切な人なのだ”とお語りになったのである。そして主イエスはこの男を癒やされた。「いたんだ葦」のような彼の身体はしっかりと強くされ、「くすぶる燈心」のような彼の心にはいのちの炎が赤々と燃え上がった。

 

 主イエスは、この救いの奇跡によって「地に公義を打ち立て」られた(4)。「公義」とは“さばき”と訳される言葉であり、白黒ハッキリさせて正しいことを世に知らしめることである。パリサイ人は“自分の理屈”の正しさを主張していたが、主イエスは“人を救うことが正しい”という神の正しさを世に示された。

 

 神は私たちを救ってくださる。神を信じて生きるならば、何があっても“これで終わり”ということはない。主イエスの十字架と復活によって、神と共に生きる道が私たちの前に備えられている。