イザヤ43章1〜7節
「あなたは高価で尊い」
イスラエルの民は、神様の御心にかなう生き方をすることができなかった。罪の本質は己が神になることであり、自己中心である。そんな人々に対し、神様は恵みの決断をされる。神様は“どんなに罪深くても、決して諦めない・見放さない”と決意された。そんな神様の思いが「だが、今、ヤコブよ」との言葉に込められている。
神様が見捨てないのは、神様が私たち一人ひとりを「造り出した方」だからである(1)。母の胎内に小さな命として存在する瞬間から、神様は「わたしがあなたを贖った」「わたしはあなたの名を呼んだ」「あなたはわたしのもの」「わたしの目にはあなたは高価で尊い」「あなたを愛している」と語りかけてくださった。これは、神様が恵みによって決定されたことであり、その後、その人がどう生きても揺るぐことはない。実に神様は、私たちを愛しておられる。
イスラエルの民が捕囚から解放される(=救われる)ために、代価となったのはエジプト・クシュ・セバの各国であった。同様に、私たちが救われるために代価となったのは、主イエス・キリストであった。私たちは、主イエスの命に値するほど価値があり・高価な存在として神様に愛されている。
私たちは神様の愛を素直に受け入れる者でありたい。神様が「高価だ」とおっしゃるのに、必要以上に自分を卑下してはならない。神様に愛されていることを喜ぼう。確かに、自分の罪深さを知ることも大切である。愚かで汚い自分を知ると、神様の愛など意味がないと思うほど落ち込む。しかしそんな時こそ、私たちは“自分なんてダメだ”と思う自分に信頼するのではなく、「だが、今」との決意をもって、そんな私を愛してくださる神様の恵みに信頼する者でありたい。
「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」(4)